8月15日に集まって

今後の生活のガイド役、これからコーディネーター渡辺です。

お盆で、日ごろ一人暮らしの父のところに皆が集まり、ワイワイ賑やかな時間を過ごしました。
孫を膝に乗せていた夫が「こいつのつむじは南半球巻きだ」と言いだし、
台風の渦の話から最近の異常気象、竜巻や雲の話へと移り、キノコ雲から
父が戦争中の話を始めました。

昭和20年7月に入隊して、8月5日夜に、行き先を知らされないまま高槻から列車で
西にむかって移動が始まった。朝になり岡山を過ぎて暫くすると列車が停まってしまった。
(後に、この時に広島に原爆が落とされたのだったと知った。)

長い間動きを止めた列車がやっと動き出し、北に方向を変えその後また西に向かい、
8日の朝に下車したのが長崎駅だった。駅前で婦人会の方々に迎えられ、
こちらは空襲が幸いこれまで無かったという話を聞き炊き出しをいただいた後、
6キロ程南の「どいのくび(土井首)」という所の小学校に行った。
翌9日朝、原爆投下の時はここにいたが、山に遮られて直接の被害はなかった。
何が起きたか知らされず、その日の夜中にシャベルだけ持たされて出発して、
10日朝に長崎市へ入り、そこで3日間で働いた。。。

15日の玉音放送を聞けなかったが、16日になって戦争が終わったと知った。
が、直ぐには帰れず、家に着いたのは20日過ぎ。
帰宅後もずっと、ひどい下痢が止まらなかった。

これまで父は戦争の話をあまりしなかったのですが、戦争の体験は聞いておくべきだし、
私の世代が孫やまたその次の世代へと 実際に聞いたことを伝えていかなければなりません。

その時代を話すことや伝えることなど、高齢者ならではの使命だと思います。